「ならまち」(奈良市)の取り組みと、「大津百町」の取り組み。

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こんばんは。
滋賀県大津市議会議員、藤井哲也です。

本日、いじめに関する第三者調査委員会の調査報告書が議会に提出されました。
内容は200ページ以上にわたるボリュームですのでこれから精読したいと思います。
本題に入る前に気になること2件。

住宅手当不正受給の大津市消防士長を停職処分(産経新聞より)
懲戒規定に沿って処分したとのことですが、20年近くにわたり故意性を持って住宅手当を不正受給していて、それで停職1か月の処分というのは市民感覚からしたら、激甘処分と感じます。
そのほかにも不正受給した住宅手当を未だ返還を渋っている職員がいます。公務員天国だとつくづく思います。

捜査書類ねつ造、1年6月求刑 舞鶴署元巡査部長公判(京都新聞より)
滋賀や大津とは違い京都の案件ですが、捜査書類をねつ造し、虚偽有印公文書作成・同行使容疑の元警察官が、「勤務低調者」に指定されることを嫌い、「犯罪検挙の実績」を積みたいがために犯した件で公判がありました。
こういう制度(犯罪検挙の実績によって評価される)というのは、良い影響がある半面、悪い影響も多いと思います。警察にはもう少し人事考課を見直して頂きたいと思います。


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本題です。
1月23日に奈良市へ観光振興対策に関する行政視察に伺ってきました。
先のブログにも観光振興対策について記載いたしましたが、今回は奈良市が力を入れて取り組んでいる「ならまち」と旧大津市の「大津百町」の取り組みについて思うところを記載します。

写真 2   写真 1
(大津市の大津百町と、奈良市のならまちのパンフレット)


「ならまち」及び「大津百町」については詳述すると長くなるので関連サイトから一部抜粋し、リンクを貼らせて頂きます。

『ならまち』
都市としての発展は、奈良の都・平城京の外京として多くの社寺が置かれたことに始まる(発掘調査では平城京以前の古墳も発見されている)。長岡京遷都後も、東大寺や春日大社、興福寺のお膝元として都市機能を維持した。中世以降、元興寺旧境内に様々な産業(筆、墨、蚊帳、晒、布団、刀、酒、醤油など)が発展し、江戸期には有力商工業都市として町が形成された。奈良奉行による17世紀末の調査では、人口3万5,000人を数えている。
第二次世界大戦の空襲を免れ、街路と建築が残った。人口の少ない何らの工場や産業施設もない小さな町のため空襲されるほどのことはなかったとも言われる。戦後は奈良市旧市街地として栄えた。
20世紀後半には地域住民による町屋保存活動が活発化し、1984年には社団法人奈良まちづくりセンターを設立。市民主体のまちづくりシンクタンク社団法人の設立は全国でも初めてのことで、各地のまちづくり運動の先鞭をつけた画期的な事例である。

wikipediaより)
【参考】ようこそならまちへ(奈良市観光協会公式ホームページ)


『大津百町(おおつひゃくちょう)』
「大津百町」とは、江戸時代、港町・宿場町として発展した旧大津の賑わいぶりを表現した言葉です。当時からの町名は、現在も中心市街地の各所に残り、人々に親しまれています。
大津市ホームページより)



私の生まれは、大津市長等(ながら)で、「大津百町」の中です。
旧大津市にはたくさんの旧町名があり、その数がたくさんあることから「大津百町」と呼ばれています。
当時の大津市は、交通の要衝として北陸や東海道から京都にモノを運ぶ中継地点となっており、琵琶湖上による海上輸送と東海道からの陸運の交差点として、自動車が交通手段の中心となる時代まで大いに栄えていました。
大東亜戦争による戦禍からも逃れ、戦後も町屋を中心とする景観は維持されてきていたと聞きます。

しかしながら、時代の変遷に伴い新住民が増加し、またライフスタイルの変化もあり、そして都市開発の影響もうけ、当時の面影は徐々に失われてきています。
大津には「大津祭」と呼ばれる江戸時代から続くお祭りがあり、いまでも町衆が大津祭の日に曳山を引いて、町が往時をしのぶかのように活気づきます。
【参考】大津祭曳山連盟ホームページ

個人的な思いとしては、この地域をなんとか昔のように活気ある町にしたいという思いを強く持っています。
単に補助金を出して商店街を活性化するというものではなく、町全体を都市計画施策を通じて、元気にしたいという思いです。

そこで注目したのが、奈良市の「ならまち」です。
現在、「ならまち」は紆余曲折して、町屋風景が残り、現在は全国から観光客が絶えないスポットになっておられます。
「大津百町」の再興の参考にすべきスポットだと思ったわけです。

「ならまち」の形成には、なら・まほろば景観まちづくり条例などに基づいて、都市景観に配慮されたまちづくりをされています。
最近ではマンションが建ったり、ハウスメーカーによる家が建ったりと、そこに住む人が自分の私有財産を有効活用したいという思いから、様々な使途に用いられますが、それが街並みを維持することから外れるケースもあるようです。

自分もそこに住む住民ならば、確かにマンションを建てて、私有財産を活用したいと思うかもしれません。
街並みを守りたいと思うのは言ってみれば、「よそ者」が中心なのかもしれません。
だれしもが自分の財産(土地等)を自由に使えるのは、法律で定められていることなので、それは当り前です。
そこに行政が一定の制限を設けるのはなかなか困難です。
そうした問題がある中で、どのようにして「ならまち」は一定の成果を上げているのでしょうか。


大津市でも奈良市同様の取り組みがされているのですが、「古都大津の風格ある景観をつくる基本条例」というものがあり、その条例に基づく計画によって施策が展開されています。
奈良市も大津市も取り組んでいる施策としては、「都市景観形成区域」を設けて、その区画内の家については、改修等を事前届け出制にしていたり、「都市景観形成地区建造物保存整備費補助金」のような補助制度を用意して、伝統的な形式の外観にリフォームするときには、800万円~1000万円(補助率10分の5~8)の補助金を出しておられます。また、町屋を残すために「町屋バンク」を設けて、町屋を貸したい人と借りたい人のマッチング事業を行政がされています。
ただし、あくまでも都市景観を形成するための主体的役割を担うのは、「そこに住む人」であり、その人たちの協力なくして、その地域の都市景観は維持されず、ひいては観光振興対策に結びつけることができません。


大津市でも一部住民の主体的活動により、市民と行政との協定により「町屋修景整備事業」が進められています。

写真

「大津百町」の中に、旧東海道が走っていますが、その旧東海道沿線に伝統的街並みを形成していこうとするものです。ここから旧東海道沿線に徐々に活動が広がっていくことで、伝統的な町屋や歴史を感じる街並みが広がっていくことになります。
もしこうした伝統的景観を持つ地域が、大津駅からびわ湖まで走る、いわゆる「30メートル道路」まで延伸すれば、一気に観光客や人通りが増えると思います。

しかし、やはり活動の主体は「そこに住む人」ですので、一方的に行政が決定することはできません。
要は、伝統的な街並みを維持することのほうが、マンションを建てるなどよりもメリットが高い状況になれば、自然と「そこに住む人」の考えも変わると思うので、行政がすべきことはそこなのだと感じました。

奈良市ではある程度景観形成が進んでおり、大津ではまだ不十分と言うのは、行政のこうした取り組みの軽重の違いではないかと感じております。

今回の行政視察と、大津市の都市景観にかかわる関係者からのヒアリングにより、多くの課題がわかりました。
少し時間がかかることかもしれませんが、この問題はぜひやらねばならないと思っています。
また、大津市と奈良市の観光振興にかける意気込みの違いにも気付きました。奈良市は本気で観光振興対策に取り組んでいるのがわかります。大津市では市長が活動内容がよく分からないプロジェクトチームを作ってみたり、ハッキリ言って現状では効果が不明瞭な三条京阪の観光案内所を作ってみてPRしたり(今日も見てきましたが散々でした・・・)、または「女子たび」などといって地に足がついていないPRをしていますが、奈良市の観光振興施策とは次元が全く違うなと思いました。
(トライアンドエラーは必要だと思うので、大津市の施策にも今後期待したいですし、市長のトップセールスにも期待したいと思います)

今後は、議会では課題解決に向けた提言を随時行うと同時に行政に対して奮起を促したいと思いますし、また議員活動としては地域との連携を図れるような取り組みを継続的に行っていきたいと思います。
なんとか「大津百町」だけに限らず、大津市全体に賑わいを取り戻せれば最高です。


大津市議会議員 藤井哲也拝




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