大津市真野について(5)~真野の伝承~

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おはようございます。この土日は真野北学区の文化祭が開催され、私も少しだけ顔を出しました。真野北学区は真野学区から1994年に分離した新しい学区で昨年度20周年を迎えられました。京阪グループが開発し、「ローズタウン」と呼ばれています。最近の真野を語るうえでこのローズタウンも触れなければなりません。次回記載したいと思います。

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大津市の真野は、琵琶湖の南湖と北湖の境目の西岸にあります。

大津市真野の位置


真野は1874年に真野浜・真野沢・真野北・真野中の4か邑が合併し旧真野村となり、さらに1889年に旧真野村、普門村及び、南の庄4か村(佐川、家田、谷口、大野)の合計6か邑が合併し新しい真野村が誕生しました。
その後、1956年に新真野村と、旧堅田町、伊香立村、葛川村、仰木村が合併し、新しい堅田町となり、続いて1967年に大津市と新しい堅田町が合併し、真野地域は大津市の一部となりました。それから今年で48年目。2017年に真野地域が大津市の一部となって50周年を迎えます。

真野に住む方以外にとっては、それぞれの地区の位置関係が分かりにくいと思いますので、下記におおよその範囲を示します。(詳細に各地区をくくっているわけではなく飽くまでイメージです)

真野の地区割り(おおよそ)


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昭和43年(1968年)の真野小学校卒業文集として当時の教師であり郷土史家である横山幸一郎氏(1929-1985)が真野の伝承について、生徒と共に編纂したのが「むらのきろく」です。現在、大津市北部地域文化センター内にある北図書館に現物があり私も拝見しました。その中から幾つかの記事を取り上げて紹介します。
なお文章データについては、既に郷土史家の佐久間宗勝氏が書き起こされているので借用させて頂きました。もっと深く広く真野の歴史や文化についてまとめておられますのでご興味ございましたら是非とも氏のホームページをご覧くださいませ。
佐久間宗勝氏のサイト


[皇子塚]
(大野地区の伝承)
みこ塚という。今を去る1300年ほど前、天智天皇が近江の滋賀里の付近にお造りになった都は、わずかの年月ですたれてしまった。天皇がおかくれになったあと、その子大友皇子と、天皇の弟さんの大海人皇子の間に争いが起こった。大友皇子は近江の軍をひきいて戦い、瀬田川の戦いで敗れる。従者数人を連れ、大野の地に逃げ、乗っていた馬のくらを木にかけ自刃する。今もくらかけの木の下を流れる真野川を長良川と呼び、山の地名を山前といっている。大友皇子を祀る神社は大津にも堅田にもある。歴史の本には大友皇子、敗走し山前にて死ぬ─とあると先生から聞いたが、今のところ長良が正しく、山科、堅田は伝説だとみられている。まして、真野大野の皇子塚もそうであろう。しかし、塚・円墳の古墳が存在する限り、大友皇子か誰か掘ってみて中の遺物を確かめたいものである。埋蔵文化財はみだりに発掘できないので調べてほしいと思っている。場所は大野のはずれ、南庄との境界にある。景色のよいところで山全体に木が繁っている。

[しらんぼうの神様](大野地区の伝承)
私たちの住んでいる大野に、しらんぼうの神様がいらっしゃいます。この、しらんぼうの神様は、ひとつの森を大事そうに持っておられます。村の人がその木を切ったり、その中へ入って荒らすと、おおこりになって、ひどい罰を与えられるというのです。村にいろんなことが起こっても、わしは知らんよーと知らん顔をしていらっしゃいます。しかし、私の考えでは、この知らんぼうの神様こそ、何でも知っていらっしゃる神様であると思えるのです。世の中には知らないのに知った顔をしている人が多いようですが、この神様は村人の進む道を知らん顔して教えていらっしゃるのではないでしょうか。また、知らんぼうの神様は、いい宝物をお持ちで、正月の朝になるとお宮の屋根に一羽の金の鳥が鳴きます。「おめでとう」と。この金の鳥こそ知らんぼうの神様の宝物なのです。金の鳥は●●●●●●に埋められていて、一年に一度だけ村人にあいさつするのです。だれひとりこの金の鳥を見たものはありません。また声を聞いたものもありませんが、村の人は、金の鳥は確かにいると信じています。知らんぼうの神様と金の鳥、日本の民話より、どちらかというと西洋風の匂いのする伝説である─と先生は言っておられますが、興味ある話です。

[金の茶釜](佐川地区の伝承)
私の住んでいる佐川に八幡のやしろがある。そのうらに竹やぶがあって、寺の跡が残っている。よくいわれる比叡山の三千坊のひとつで、織田信長の兵火によって焼失したという。寺の名前は不明であるが、その寺の住職が寺宝の金の茶釜を井戸に投げ込んだ。今、竹やぶに井戸はないが、竹やぶを掘れば井戸もあり、金の茶釜も出てくるという伝説を記録しておく。

[正院坊](家田地区の伝承)
比叡山の三千坊の一つに正院坊と呼ぶ寺があった。今はないが家田にあったといいます。そのあとは藪や田畑になっていますが、地名に残っています。例えば堂の上、堂の前、庵の下、中の堂などです。地名から推定すると、本堂と左右の堂、それに一つの寺院の様子がわかります。かなり大きな本堂です。今の若宮神社の付近一帯です。跡のよくわかる瓦や石探していますが見つかりません。

[家田という名](家田地区の伝承)
昔、家田は南庄に属していた。南庄の東、今の家田のあたりは田畑があっただけである。南庄からこのあたりまで農耕に来るのが遠いため、田のために家をつくろう、すなわち田の家、つまり家田の地名が起こったのである。だから家田の神は南庄の神と同じで、源融を祀っている。融神社がそれである。源融は近江の国司で、特にこの地を愛され、よい政治をされたという。村人は融侯によく従い農に励んだという。はじめに移り住んだのは八軒で、今は倍の十八軒で小さな部落である、つい最近まで南庄の山野の草刈りは許されていたし、今も南庄の祭りにはおこわをいただいて食べるという風習が残っている。

[桜塚](谷口地区の伝承)
普通、大友桜と呼んでいる。大友黒主の姫の桜姫が眠っている墓だと伝えている。井上仁三郎さんの所有田になっている。大友黒主は平安時代の歌人で、六歌仙の一つに数えられている。平安の頃の郷は、南から大友郷・真野郷・小野郷・比良郷で、この地は真野郷に属するが、大友氏の別宅があった様子である。普通、日本レースの工場の裏手の山を大友山という。桜姫については詳しいことは分かっていない。

[同性坊](普門地区の伝承)
普門にはたくさんの寺がありました。まず有名なのが同性坊です。この坊は天台三千坊の一坊で、平安時代にあったものです。今でも同性坊山と呼んでいます。馬場五州さんが、この跡から香炉二個を発見しています。同性坊はのちに真宗に改宗して浜に移り正源寺となっています。この寺の本尊が同性坊の本尊だと口伝しています。また「しんちょう坊」という坊も存在したといいます。寺前という地形は、たけのはなにある。たけのはなというのはとりでの意味で、寺を守る石塁があったにちがいありません。遺跡の研究によって寺坊を明らかにしたいと思います。

[普門の字の名](普門地区の伝承)
普門地区を三つに区分して、上出、下出、木の下と呼んでいます。上出は上の部落、下出は下の部落、木の下は、いなりさんに昔大木があって木の近く、すなわち木の下とよんでいます。土地台帳には上出、木の下が明記されていず、下出だけになっています。俗称なのでしょう。その他の地名に、庄の本、おとの本、との口、寺前、竹の鼻、陣処などがある。寺前は平安時代に存在した普門坊のなごりで、竹の鼻、陣処などは鎌倉、室町の陣屋を意味しています。庄の本、おぎの本は部落のもとじめにあたる意味を示しています。先生によると地名、とくに古名は昔の歴史を解くカギだとおっしゃっていましたので、いまのうちに年寄りの人から聞いて記録しておこうとおもいます。

[みこしと鏡](普門地区の伝承)
上の神田神社は重文に指定されているほど、立派な宮さんですが、みこしがありません。昔はあったのです。ある夜、盗難にあったというのです。ところが翌年の祭りの時、堅田のおいが橋という橋を渡ろうとした普門の人が川の底に光っている神輿の鏡を見たそうです。普門のみこしは湖の底にあると伝える話です。

[新堀](中村地区の伝承)
中村は交通の要処であったといいます。そんなこと信じませんという人もあるかもしれませんが、本当のことです。元来、物資は湖や川を利用して運ばれていました。葛川・伊香立・真野の木炭、農作物、わら工品などは、牛車や船で中村の新堀に運ばれ、ここから堅田の沼(かやという内湖)に通じ、琵琶湖に出て堅田・坂本・大津・木の浜・八幡・和邇などに運送されていたのです。室町から江戸時代にかけて、真野市という市が立ったものです。場所はここです。地元から集散されたもの、他地方に送られたものをその時の相場で値をつけるのです。手筒のような布を、売る人、買う人の手にかぶせ、指を握りながら値段を決め、両者一致したとき握手するのです。この真野市も明治になるとすたれますので、運送一本となります。もっと大じかけに交通の流通を図らねばなりません。中村の人たちは一致して内湖に通じる掘割を拡げるため、新堀といって新しい川を作りました。三年の歳月がかかったといいます。主に辻から南の方の部落人たちです。今でもこの部落を新堀と呼んでいます。新堀を掘るために家財道具一式を売却して、これにあてたとも言います。昔の人は骨身みを惜しまないところがあって、私たちもこのような点を学びたいものです。そのため、明治・大正と中村の新堀運送はにぎわいました。昭和になってトラックなど陸路の交通が発達しますと、この新堀も衰えます。大正十二年に江若鉄道がとおり、堅田駅ができ、翌々年真野駅が設置されると、なおさら物資は汽車輸送になります。今も残る堀を見て、かつての掘の全盛をしのぶのみです。

[真野川の歴史]
(中村地区の伝承)
地図を見て驚くことは、琵琶湖の突き出たところが二か所ありながら、 他方に川がないことです。つまり中村の東に普通、浜先と呼ばれている地には、 真野浜があり。真野川が流れています。川がデルタ地帯をつくるという、土地 造成の見本に従っています。さて、出島といわれる今堅田も湖に突き出ています が、川がありません。自然に突き出して地形ができたという考えかたは納得で きません。そのはずです。出島の方にも川はあったのです。真野の古文書の類 は、元亀・天正のころの戦乱で焼失していますので、古地図などは残っており ませんが、堅田にある古地図には、はっきりと真野川が描かれています。それ によりますと、比良山の南端、伊香立の山手から端を発した真野川が、中村に いたって二つに分かれ、北流して真野浜をつくり、南流して今堅田を造ってい たのです。そういえば、今堅田の部落には廃川と思われる河川が部落を横切って います。ちょうど琵琶湖大橋はその中間のところに建設されているわけです。 東に位置する野洲川が、北と南の二流を有していることからも考証されます。 西と東から、山の手の土を運び日本一の琵琶湖を両方から狭め、琵琶湖の最狭の 地を形成しているのです。また、近江盆地の野洲デルタ、真野デルタを作り、 江州米と呼ばれる良質の米を産出しているのでもあります。真野川の歴史は、 この土地の歴史であり、この土地の母でもあります。川を利用する真野村の人たちは、 川に感謝しなければなりません。さて、大きく時代を区分して、真野川周辺の記録を 記しておきましょう。先史時代から何百万年も前、琵琶湖は古琵琶湖と言われ、 今よりずいぶん広かった。伊香立に生津という土地もあるように、真野川は まだできていなかった。古代すなわち二千年前ぐらいとなると、真野のあたり まで川ができてきて、沢、中村の処まで伸びてきた。縄文時代の人々たちは川 の流域で魚貝を求めて生活していた。大和時代から奈良時代になると、南流、 すなわち堅田へ流れる川が大手筋で水量も豊かで堅田の土地を造ってゆく。 川の自然堤防に人が住みつき生活するようになる。堅田は地名の通り、 湿田が干潟になり、良田、堅田になってゆく。その希いが地名になったのであるが、 また堅田の先祖は真野からの移住によっている。堅田の古文書に「マノノ漁師、 カタタに居そめて漁をし渡しもりをする」というのがあると先生から聞いたが、 このことをよく証明している。さて北流の方は平安までは沢、北村あたりで、 あの有名な真野の入江は、沢と北村の中間であるからである。北流が浜のあたりに のびてくるのは、中世、鎌倉、室町、安土桃山で、現在の浜の部落ができたのは、 江戸時代からである。とすると、いつごろから南流が廃川になるのだろうか。 先生に聞くと江戸時代からで、南流の川の周辺を開発し、田畑にしたそうである。 江戸時代以降には南流の川は消失し、逆に田畑が増加していることによっています。 明治・大正時代は北流の真野川が盛んに洪水をおこし村人を困らせる。 そのために流れの方向を昭和になってかえ、中村地区に通過させないで、まっすぐ現在のように流す。 その先端に水泳場ができ、琵琶湖大橋がかかっているのである。

[一本松](中村の伝承)
中村の東のはずれに一本松があります。西近江路の里程を示す一本松で、第二室戸台風で松の木が倒れて、今は寂しい姿をしています。一本松は経(きょう)塚だともいって大切にしています。経塚とはお経を筒に入れて埋めてある塚のことです。しかし先生の意見では、塚ではなく目印の地で、本当の一本松経塚は、こんぴら山の東にある一本松の方がそれらしいといっています。

[神宮寺の鐘](沢・北地区の伝承)
正応三年、矢田部宗次作と銘のある古鐘は神田神社の神宮寺の鐘である。室町時代の戦国の世、真野氏は佐々木六角方に属し戦った。この鐘は、対岸兵主の兵主神社に一時納められていた。明治になって浜出身の三宮式部長が取れ戻され、いま浜の正源寺にある。

[ぎょうじ塚](沢・北地区の伝承)
沢の藤の木に小さな塚があって、その場をさわると祟りがあるといっています。きっと神聖な場所だったに違いありません。塚は何か埋まっているといいますから何かがあるのでしょう。

[浜の船入れ](浜地区の伝承)
浜の船入れというりっぱな港がある。江戸時代に八幡屋善助という人が真野の漁師のために独力で比良から石を運び、十年間の年月をかけて船入れを造った。八幡屋は佐野さんのところで、善助さんは先祖にあたります。その船入れができてから漁をするのが楽になり、みんなから感謝されたということです。

[琴ヶ浦](浜地区の伝承)
真野水泳場を普通、川先きといっているが、古名は琴ヶ浦である。琴ヶ浦は真野浜から今堅田の浜辺にかけて続いている。今、琵琶湖大橋ができている処はこの浦の中央にあたる。この浦の有名な匂当内侍入水の話が伝承されているので記録しておく。匂当内侍は藤原経卿の女、新田義貞の妻。後醍醐天皇のころ、延元元年五月、足利高氏(尊氏)が反旗をひるがえし、新田義貞は京都・兵庫に戦ったが、利なくこの年の十月、皇太子恒良親王、尊良親王をつれ越前に下るとき、匂当内侍を琴ヶ浦の苫屋にとどめられる。内侍は三年の間この地にて義貞の帰りを待つが、不運にも新田義貞は延元三年七月二日、越前藤島の地にて戦死。それを聞いた匂当内侍は発狂し、九月九日、義貞のあとを追うため琴ヶ浦に入水自殺する悲話である。月のよい晩、たもとに石をいっぱいつめて、笛を吹きながら湖に身を投げた匂当内侍は年わずかに二十二才であったという。いまも琴ヶ浦の森、琵琶湖大橋の近くに内侍の霊は残っているのである。


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「むらのきろく」を編集された横山先生は次のように「おわりに」で述べておられます。

 表題にかかげた「むら」は「村」ではなく、古い「むら」のにおいのする土地、つまり、かっての素朴な農村という意である。その「むら」に焦点をあて、綴ったのが「むらのきろく」である。
 真野の歴史は土地の歴史的な流れを史学な立場から論述したもので、前者を児童生徒に、後者を筆者が担当した。
 この土地に歴史があって資料がないーということを補うためと自分の土地を誇り、土地に対するイメージを希うーということ。この二面を動機として研究を始めた。さいわい四年間担任を続けたので予定通り進行した。この間大病を患って二・三か月学校を休み迷惑をかけたが「近江郷土史事典」なる書を公刊して再起し、この研究の後半は、ともども協力して完成にもっていった。
 昭和四十三年三月十九日、担任児童四十四人は「むらのきろく」を卒業文集として巣立ちゆく。巣作は十分であったかどうかー文集のみでなく、前面にわたって相済まないと思っている。児童が去ったあと、この記録をより十分なものとして。それがただひとつの私のできる報いだと悟ったのである。



大津市議会議員 藤井哲也拝










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