「みんなの党」論①~みんなの党ができるまで~

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 先日、みんなの党最高顧問だった江口克彦先生と懇談する機会がありました。江口先生もみんなの党の果たした歴史的な意義は大きかったと仰っておられましたが、私も同感です。

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 かつて「みんなの党」に所属していた地方議員のひとりとして、突然の解党から2年が経つ今、あらためて「みんなの党」とは何だったのか?「みんなの党」が果たした事・残した事はなんだったのか? 
 私自身が一つの区切りをつけて前に進むために振り返りたいと考えています。
 なお振り返りの中で出てくる人物で、渡辺喜美氏、江田憲司氏、江口克彦氏は、「先生」と表記しています。ご了承お願いします。


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 「みんなの党」ができる萌芽は1980年又は1990年代後半まで遡ることができると思います。
 1977年の大平正芳政権による「一般消費税」導入の失敗により、1980年代の鈴木善幸政権、中曽根康弘政権では歳入ではなく、歳出削減を行う行政改革が進められました。その後も基本的にはその基本方針は踏襲されていたと思います。
 その後、高齢化の進展と共に徐々に財政悪化は明らかとなり、橋本龍太郎政権・小泉純一郎政権で抜本的な行革が行われました。

 特に、橋本龍太郎政権下の1997年に設置された行政改革会議の最終報告において、「この国のかたち」を憂えた政治家や官僚により、以下のように文章がまとめられました。

はじめに
本行政改革会議は、平成8年11月28日、第1回の会合をもち、①21世紀における国家機能の在り方、②それを踏まえた中央省庁再編の在り方、③官邸機能の強化のための具体的方策、を主要な検討課題とすることを確認し、爾来、このたびの行政改革がもつ歴史的文脈を意識しつつ、かつ、既に進められてきている経済構造改革や財政・社会保障改革等の検討状況を視野に入れ、鋭意審議を行ってきた。この間、われわれは、有識者との意見交換や海外事情調査、地方における一日行政改革会議の開催、各省庁からのヒアリング等を経て、本年8月18日から21日、11月17日から21日にかけての二度にわたる集中審議を含め、延べ50有余回の会議を開催し、真剣な討議を重ねた結果、今回の合意に到達した。

 今回の行政改革の要諦は、肥大化・硬直化し、制度疲労のおびただしい戦後型行政システムを根本的に改め、自由かつ公正な社会を形成し、そのための重要な国家機能を有効かつ適切に遂行するにふさわしい、簡素にして効率的かつ透明な政府を実現することにある。そのような観点に立って、具体的には、まず第一に、内閣・官邸機能の抜本的な拡充・強化を図り、かつ、中央省庁の行政目的別大括り再編成により、行政の総合性、戦略性、機動性を確保すること、第二に、行政情報の公開と国民への説明責任の徹底、政策評価機能の向上を図り、透明な行政を実現すること、第三に、官民分担の徹底による事業の抜本的な見直しや独立行政法人制度の創設等により、行政を簡素化・効率化すること、を目指すものとする。徹底的な規制の撤廃と緩和を断行し、民間にゆだねるべきはゆだね、また、地方公共団体の行うべき事務への国の関与を減らすことが、その大前提となる。そして、こうした行政機構の再編成と並んで、その運営を支える公務員の任用の在り方について適切な工夫をこらすものとする。

 われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない。

 「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(憲法前文)という日本国民の願いは、このような政府を基盤として、国際社会に対して独自の提案や価値の発信を行い、公正なルール作りに向けて積極的な参画を行うことによってはじめて実現され得るものと信ずる。

 国民各位・各層におかれては、日本が直面する困難な事態を認識され、本報告に対する理解と支援を寄せられることを願うものである。

 以上のように、「はじめに」では、「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換する」ことに結びつくものとして「行政改革」を捉え、この考え方に基づいて、中央省庁改革並びにこの後に続く地方分権が進められていくことになったと思います。

 この行政改革を強力に推し進めた橋本龍太郎首相の内閣総理大臣首席秘書官をしていたのが、みんなの党の創設メンバーである江田憲司先生(現 民進党代表代行)で当時、通産省官僚でした。
 江田先生は1998年、橋本内閣の退陣に伴い通産省へ戻らず退官し、2000年の衆議院選挙に立候補(落選)、2002年に当選、2003年に落選と曲折を経て2005年に無所属で当選し、2006年に橋本龍太郎元首相が亡くなった後の2008年、「官僚国家日本を変える元官僚の会(脱藩官僚の会)」を結成し代表幹事に就任しました。


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 中央省庁再編などの行政改革が急速に進展する中で、行政組織を担う国家公務員の人事管理の在り方についても新たな時代にふさわしいものに改めていく動きが出てきました。
 1997年に橋本龍太郎首相から公務員制度調査会に対して、「国家公務員に関する制度とその運用の在り方についての全般的な見直し」について諮問がなされ、1999年小渕恵三首相に対して「公務員制度改革の基本方向に関する答申」がなされました。このあと森喜朗政権の2000年に「行政改革大綱」が閣議決定され、「国家公務員、地方公務員制度の抜本的改革」として、公務員の信賞必罰の人事制度の確立、再就職に関する合理的且つ厳格な規制など6つの改革がまとめられました。
 1995年、自民党の渡辺美智雄 元副総理が死去し、後継で渡辺喜美先生(現・日本維新の会副代表)が1996年に菅義偉先生(現・内閣官房長官)らと同期当選しました。
 2006年第1次安陪晋三政権において、渡辺先生は内閣府特命担当大臣(規制改革)に就任し、国・地方行政改革担当、公務員制度改革担当、地域活性化担当、道州制担当のポストを担当し、在任中は国家公務員の再就職を一元的に管理する「人材バンク」や「中央省庁幹部の1割の公募制」導入を提唱し、2008年福田政権途中まで「行政改革大綱」にある「国家公務員、地方公務員制度の抜本的改革」に沿って活躍をされてきました。
 しかしながら実際は、公務員制度改革について様々な意見が出されることになり、審議可決されることは少なく廃案になったということです。
 
 2008年9月のリーマンショックの影響が日本に及び、日本の経済状況・雇用環境が急速に悪化し閉塞感が日本を覆う中、渡辺喜美先生は、2008年12月ねじれ国会による民主党提出の「麻生太郎首相に対する衆議院の解散総選挙を要求する決議案」に与党議員でただ1人賛成し、自民党から処分を受けました。
 当時の記事は以下の通りです。

 自民党の渡辺喜美・元金融担当相は24日午後、同日の衆院本会議で民主党が提出し、与党の反対多数で否決された衆院解散・総選挙を求める決議案に賛成に回ったことについて「今の(政治の)閉塞(へいそく)感を打破するには解散・総選挙しかない。国会議員の原点に立ち返って賛成した」と語った。
 また、予想される党からの処分については「甘んじて受ける」と語った。記者団に対して述べた。
 渡辺元金融担当相は、賛成した理由について「麻生(太郎)内閣はもともと解散・総選挙を期待されて組閣した。しかし、解散・総選挙が延び延びになり、発言が二転三転している。二転三転する中で、閉塞感が充満してくるのは、政治にとっていいことではない。閉塞感を打破するには解散・総選挙だ」と繰り返した。
 今後の対応については、党から処分が下されれば受けるとしながら、自発的に自民党を離党する考えはないと表明。民主党など野党との連携の可能性も否定した。
ロイター2008.12.24

 
大津市議会議員 藤井哲也拝





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