「みんなの党」論③~躍進期~

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 2009年8月8日に「みんなの党」が結成され、同月末に行われた解散総選挙により、自民党は敗北し下野しました。代わりに国民の期待を一身に背負い民主党が政権の座に就き、鳩山由紀夫政権が誕生しました。

 当時、みんなの党は「ホップ・ステップ・ジャンプ」戦略を頻りに述べ、つまり結成1年後に訪れる初の試練とも言える2010年夏の参議院選挙を「ホップ」、2011年4月に行われる統一地方選挙を「ステップ」に、そして来る次期総選挙を「ジャンプ」として位置付け、政権に食い込む考えを持っていました。

 事実、2010年7月11日に投開票がなされた参議院選挙では、みんなの党は10議席を獲得し、民主、自民、公明に次ぐ第4党(11議席)となり、法案提出権を獲得するなどアジェンダ(政策提唱)の党としての足場を固めつつありました。

 昨年8月に結党したみんなの党は、初めて挑戦した参院選で躍進した。国会活動の幅が広がる勢力を確保し、一定の存在感を示すことになりそうだ。
 同党は参院のキャスチングボートを握り、政界再編に持ち込むことを基本戦略に、選挙区選21人、比例選23人の計44人を擁立。党首討論に参加できる10議席以上の目標を達成した。非改選の1議席と合わせ、参院で予算を伴わない法案の提出権も獲得した。
 (読売新聞online 2010/7/12記事より

 初めての党大会が開催された2011年1月29日前後の支持率(新報道2001)を見ると、
 2011年1月27日調査 自民23.2% 民主19.6% みんな7.8% 共産3.6% 公明2.8% 社民0.8%
 2011年2月10日調査 自民23.8% 民主17.2% みんな8.8% 公明3.2% 共産0.8% 社民0.4%

 となっており、鳩山由紀夫政権が沖縄基地移設問題で言説がぶれる中で退陣し、その後を引き継いだ菅直人政権の半ばにあり、公明党を凌ぐほどの存在感を示していました。 
 この最初の党大会は、「ステップ」に位置付けた2011年4月の統一地方選挙への決起集会的意味合いが強く、国会議員、地方議員、その公認予定者等およそ400名が集い、すごい熱気の中で今年の運動方針や統一地方選に向けたローカルアジェンダの発表等が行われました。自民、民主を大幅過半数割れに追い込み、みんなの党が主導権(絶対的キャスティングボード)を握って、次期政権を形作っていこうという決意を本気で共有した党大会でした。

 当時の党中枢の考えは、2010年6月に発刊された「アジェンダで日本を変える!」(みんなの党編)にあるように、

 ステップ=来年春の統一地方選挙では、全国に「みんなの党」の基盤を構築したい。県会、市会レベルの足腰を強くすることは、来るべき衆院選挙の原動力にもなります。その次のジャンプ=いよいよ本番の衆院選の頃には、民主党の政権運営もさらに行き詰まり、自民党もさらなる融解・崩壊過程にあることでしょう。
 そうした混沌とした政治状況の中で、しっかりとした国民本位の旗印を上げられる政党こそが、その後の日本の政治を主導していくことになります。すなわち、われわれみんなの党を核にした民主、自民含めた政界大編成が実現し、そこでわれわれは政権与党となり、日本に真の民主主義を機能させ、国民本位の政治を実現する。それが「みんなの党」の歴史的使命だと考えています。


 「政界大編成」という考えは、いまから思うと滑稽に聞こえさえしますが、当時と言っても今から5、6年前は衆院と参院の「ねじれ」が続き、決められない政治が政治停滞、ひいては経済停滞につながっていたことから、一定数の国民からも支持を得た考えであったと思います。
 というのも2007年の参議院選挙で福田政権において自公勢力が参院過半数を失い、「ねじれ」を生み出した際に、民主党代表の小沢一郎氏と福田康夫首相が密かに「大連立」を画策し、民主党内での調整が不調に終わったことがありました。(これにより小沢氏は代表辞任)

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 2011年3月11日に東日本大震災と東電原発事故が発生。
 震災対応と復旧作業が続く最中の2011年4月に行われた統一地方選挙において、みんなの党は奇跡的な躍進を遂げました。道府県議選で41名(選挙前9名)、政令市議選では40名(選挙前3名)、市区議選138名というものです。ちなみに大阪維新の会は大阪府・市及び堺市の議員選挙区で合計103名が当選しました。

 私も2010年夏の「みんなの党」の参議院選挙の戦いを見て政治に刺激を受けた一人です。
 当時、リーマンショックの影響を受け雇用環境はどん底の状況でした。私が創業した2003年から2011年までの有効求人倍率の推移は、2003年0.64→2004年0.83→2005年0.95→2006年1.06→2007年1.04→2008年0.88→2009年0.47→2010年0.52→2011年0.65です。
 就職氷河期を自ら経験し、このままであれば若年者にフリーターや非正規社員が増え続け、いつしか国の根幹が揺らいでしまうと懸念して起業し、寝食忘れて若者の就労支援事業に取り組んできたものの、2008年以降は急速に環境が悪化しました。私はこれは政治の責任だと感じていました。「若者の未来、日本の未来をなんとかするためには今の政治を変えるしかない!」という思いを強く抱いていた頃、ちょうど2010年参議院選挙が行われ、報道を通じて「みんなの党」の存在を知りました。
 2010年10月頃に公認申請を出し、2回の面接を受け(1回目は山内康一氏、2回目は渡辺代表)、当初希望していた滋賀県議選については他候補と調整の必要が生じ、時間的制約のため私が引いて市議選に挑戦することになりました。

 「ステップ」に位置付けた統一地方選挙を経て、次なる照準は「ジャンプ」に位置付けた衆議院選挙です。その間、国政においては尖閣諸島中国漁船衝突事件や、原発事故、震災復興を巡る対応について菅直人政権が追及され、ついに2011年8月に退陣。野田佳彦氏が首相に就任しました。民主党政権への失望は数字(新報道2001)から見ても顕著でした。
 2011年8月25日調査 自民24.0% 民主20.0% みんな6.0% 共産3.0% 公明2.6%
           菅内閣支持率21.6%
 2012年4月05日調査 自民20.2% 民主14.0% みんな5.0% 公明3.4% 共産2.2%
           野田内閣支持率32.0%


 支持を失いつつある民主党から離れる無党派層の受け皿として「みんなの党」は順風に思えました。
 しかし2012年春から夏にかけて状況は一変しつつありました。大阪維新の会が次期衆議院選の候補者開拓を見据えて政治塾を立ち上げたのです。3300人を超える応募者の中から選考等を経て2025人が2012年3月24日の開講式に出席し、更に選抜を経て同年6月、888人が第1期塾生となりました。
 
 みんなの党と大阪維新の会は、堺屋太一氏など共通したブレーンが理念や政策づくりに関与していたことから、当初は兄弟関係に近いものでした。そうした関係が徐々に崩れてきたのがこの維新塾、その後の維新による国政候補の公募でした。
 事実、2012年6月頃には、みんなの党と維新の会が合併して「みんなの維新」という政党ができるというのを、私自身も聞きました。そうした協議が党幹部間でなされていたと仄聞します。
 しかし8月20日に行われた渡辺代表と維新の橋下代表、松井幹事長との会談において、みんなの党が対等合併を求めたのに対し、維新側が拒否したとされたことで協議は決裂し、合併構想は潰えました。当時、みんなの党の同志ともども大変残念に感じていたことを思い出します。
 9月28日に維新は衆議院議員選挙に向けた第1次公募を締切り845名が応募しました。この際、みんなの党の参議院議員だった小熊慎司氏、上野宏史氏、桜内文城氏が離党し、維新の会へ合流する動きとなりました。
 
 2012年5月24日調査 自民20.8% 民主14.2% みんな6.2% 公明2.8% 共産2.4%
 2012年10月4日調査 自民29.2% 民主13.0% 維新4.2% 公明3.4% 共産1.8% みんな1.8%




大津市議会議員 藤井哲也拝





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