0歳(1978年)
滋賀県大津市の長等(ながら)の父の実家で生まれる。父は大津出身で電気工事や管工事の職人で後に会社経営を、母は専業主婦を、そして4歳・5歳違いの弟という典型的な家族構成。1歳頃に琵琶湖総合開発事業で埋め立てられた湖岸沿いのマンション(平野学区)に転居しました。ここで友達に恵まれた楽しい幼少期を過ごすことになりました。

3歳(1982年)
私立・聖母幼稚園に入園しました。カトリック系の園だったため、毎週教会でお祈りをしたことを覚えています。小学校6年生まで続けたスイミングスクールに通い始めたのもこの頃でした。4歳からは小学校4年生までピアノも習いました。5歳の頃に、一番下の弟が生まれたのを覚えています。名前を付ける際に祖父に3つくらいの候補からどれがいいかと聞かれて答えた名前が名づけられました。

6歳(1985年)
大津市立平野小学校に入学。当時から大規模校で同学年はかなりの人数でした。1・2年生の時の担任(八尾先生)は大変優しかった思い出があります。勉強もそれなりにしていたと思いますが、休み時間は必ずドッジボールで、帰宅後は同じマンションの友達とドッジボールや鬼ごっこ、かくれんぼ、草野球に明け暮れました。

11歳(1990年)
昭和が終わった日の事は覚えています。小渕さんが「平成」の書を持っていました。小学校6年生の夏休みに11年間過ごした平野学区から真野学区に引っ越しました。3人の子どもが成長しそれぞれの部屋が必要になったからだと思います。大津北部には、4年生の時に葛川少年自然の家に校外研修で来たり、4泊5日くらいの日程で冒険塾に参加したくらいで、あまり知らない土地でしたが、同級生はもちろん、地域のみなさんが優しく、すぐに地域に馴染むことができました。

12歳(1991年)
大津市立真野小学校を卒業し、そのまま真野中学校へ入学しました。真野小学校と真野北小学校から生徒が集まり、市内でもかなり大規模な中学校でした。なにか部活をしようかと迷っていた時に今も交友ある友達に誘われてバスケ部を見学し入部。NBAではマイケル・ジョーダンが活躍し、漫画スラムダンクの連載が始まるなどバスケ人気が高まる中でバスケの練習に明け暮れる毎日でした。

15歳(1994年)
それなりに景気が悪くなっていて、真剣に勉強しないと将来まずいことになると肌で感じていました。部活をがんばったため足が速くなり200M、400M、1500M、2000Mではいずれも学年一の成績でした。しかし中学3年の最後の大会の前に右膝の怪我をして、最後の試合はラスト1分程度しか出場できませんでした。その後は勉強一筋に切り替えました。そして県立東大津高校に合格し入学することになりました。中学の時の卒業文集には、「政治家になって世界の貧しい人のために役に立ちたい」ということを書いています。

18歳(1997年)
高校1年生の冬に、中学時代傷めた怪我が再発し、その後はリハビリが長引きプレーすることができないまま3年生の春に早期引退をしました。とにかく校則が厳しく勉強!勉強!とうるさい学校でした。大学受験に向けて3年生の夏からは一日10時間程度は勉強し、苦手だった英語は3万語を覚えることなどで克服しました。そして立命館大学法学部と関西大学法学部に合格。早稲田大学政治経済学部と立命館大学政策科学部は落ちてしまい、結果的に立命館の法学部に入学することにしました。

19歳(1998年)
大学入学後は、足の怪我もありスポーツ系のクラブには入らず、政治学の勉強をすることにしました。左翼系(民生同盟)にも何も知らず入りかけましたが、なにか怪しいと思って踏みとどまりました。ノンポリの団体がないと感じたため、友人数名とともに政治学研究会「叫ぶ痴人の会」を創設し、政治思想や国際政治関係の知見を深めていきました。また、将来の自分の方向性を考えるために、お遍路(四国八十八カ所)の歩き旅をしました。

20歳(1999年)
お遍路の度は私の人生にとって大きな転換期となりました。中学校卒業の時の夢である貧しい人のために政治家になりたいという想いが強くなりました。たまたま大学1回生ゼミの同級生に自民党で幹事長や官房長官も務めた方の親族がおられたので政治の世界に少し関わりを持たせて頂くことができました。今でいう議員インターンシップのようなものだと思います。しかし、政治の世界の奥深さを知り、純粋すぎる私には向いていないと思って、違う道を模索することになりました。

21歳(2000年)
香港返還がなされ翌年には米国同時テロが起きるなど世界情勢も大きく変化を遂げようとしていました。また日本国内でも小渕恵三さんが病に倒れ森善朗さんが神の国発言で猛バッシングを受け加藤の乱がおきるなど混沌としていました。私はこれからの社会がどうなるのかを知るため、EU統合直前のヨーロッパに一人旅に出かけました。フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、スペインを回り、激動するヨーロッパを見て、それぞれの地域で見識を深めました。

22歳(2001年)
ヨーロッパ一人旅の成果は起業を25歳までにするという目標を立てた事です。大きく変わりつつある社会の中では若者にチャンスがきっと訪れるという予感がしましたし、アップル社がiPodを発売しイノベーションが起こりつつある現状は正にそうしたことが現実的であると感じられました。成功して会社を上場させ、貧しい人のための財団法人を作ることを目標にしました。就職活動は針路を決めるのに時間を要したため4年生の5月くらいからのスタートとなりましたが、人材派遣会社2社と経営コンサルティング会社の合計3社から内定を頂くことができました。

大学卒業までの約半年の間で、ちっさな事業を始めました。学生向けのアルバイト紹介事業です。でも所詮ビジネス経験もない学生、たった数ヶ月で創業資金は底を尽きました。しかし失敗から学ぶことがありました。私が起業をして成功するためには、「営業力」と「お金」だと。この2つの要素を短期間で満たしうる会社に入社することにしました。

24歳(2003年)
人材派遣会社で当時業界7位か8位のヒューマンリソシアという会社に入りました。とにかくこの会社はゴリゴリの営業会社で、かなり厳しく鍛えられました。同期の半分近くが1年以内に辞めるような状況で私もメンタルがやられかけました。でも営業力とお金を得るまではなんとか耐えねばと思い、毎朝6時に家を出て帰宅は夜の1時、土曜も出勤という毎日を過ごしました。毎日が眠くて仕方ありませんでした。最初は1年で辞めるつもりでしたが自分にはまだ営業力が身についていないと感じた為、あと1年続けることにしました。そして2003年5月に退職。この大変厳しかった2年間がなければ、その後の会社経営のストレスにもきっと耐えられなかったと思います。

27歳(2006年)
京都リサーチパークの1坪事務所でフリーター向け求人サイト事業を始めて以来、先輩起業家や多くのベンチャー仲間との出会いの中でようやく事業も軌道に乗り始めました。事務所も京都商工会議所のご厚情により商工会議所地下に構えさせて頂き、株式会社へ移行しました。若者の早期離職問題についての商品リリースも開始し、人事労務専門誌への寄稿も行い始めました。社員も徐々に増え始め、社会的責任を自覚するようになってきました。

29歳(2008年)
会社経営も比較的順調であったことからプライベートでは結婚に踏み切りました。しかし丁度このころからリーマンショックに端を発する不景気が雇用の現場を直撃しました。会社も京都商工会議所ビルから京都中心地へ移動し研修ルームを開設するとともに、多額の借入れを行い社員の大幅増と人材紹介事業にも乗りなすなど正にこれからというタイミングでした。なんとか工夫しながら事業を継続しました。この数年間が会社経営では特に苦しかったです。そして日々物事を考える中で、ビジネスから政治へ視野が広がる時期でもありました。

31歳(2010年)
3冊めの著書「その会社、入ってはいけません!」を書き上げた後、東京事務所を閉鎖し社内の事業を整理するとともに事業規模の縮小に入りました。9月29日の創業記念日に開催したパーティで長らくお世話になってきた方達を前に政治の世界にチャレンジすることをお伝えしました。当時できたばかりのベンチャー政党「みんなの党」からの出馬を目指しました。「みんなの党」は脱官僚、地域主権、生活重視という政策柱を掲げ、多くの経済人が参画するなど、共感できることが多かったためです。

32歳(2011年)
4月の大津市議会議員選挙にみんなの党公認候補として立候補しました。旧友や地域の皆様に支えられて4千人を超える負託を頂戴し初当選をしました。1年目から就職支援や人事コンサルタントの経験を活かして、雇用政策や公務員人事制度に関する政策提言を行いました。会社経営も引き続き行うとともに、地元消防団に入団し地に足をつけた活動にも取り組み始めました。

33歳(2012年)
秋に長男が誕生。子育ての楽しさと大変さを実感しながら、子育て世代の声を市政に届けるべく、子育て環境の整備、人口減少対策(まちづくり政策や定住移住政策)にも幅を広げ、政策提言に取り組みました。みんなの党の党勢拡大にも力を入れました。また大津のいじめ自殺事件が全国的に取り上げられ、先例的ないじめ防止条例の制定に政策検討会議メンバーとして深く関わりました。

34歳(2013年)
大津市政は大揺れとなりました。新年度予算の作成過程や市長の教育委員会への介入問題があり、2人の副市長と教育長が辞任・辞職するという異例の事態となりました。越市長には少しは期待していた分、あまりにも拙い市政運営に呆れ、市長辞職を求めるなど厳しい姿勢で議会活動に取り組みました。

35歳(2014年)
みんなの党は内部分裂し私が尊敬していた渡辺喜美代表も辞任するなど党は大混乱に陥りました。そうした中、同年夏の県知事選挙に対する方針や、党県連の創設に関する姿勢(私は創設に賛成)について党所属の県内議員との意見の相違もあり結果として離党しました。秋には大津市議会の権限拡大につながる「議決事件の追加」に関して議会運営委員会に提案を行いました。また大津青年会議所にも入会しました。

36歳(2015年)
無所属で2期目に挑戦し2,167人の負託を頂戴して当選をしました。1期目の党のサポートを得た戦いとは異なり、地域のみなさんの力のみによる戦いで大苦戦しましたが、なんとか議席を守ることができました。無所属議員3人と会派を結成し1期目同様に是々非々で議会活動を行いました。大津青年会議所では理事兼総務委員長を務めました。

37歳(2016年)
新年早々行われた市長選挙では新人候補を応援しましたが惜敗。地域恒例の鯉のぼり祭りのイベント実行委員長を務めさせて頂いたり、大津青年会議所では引き続き理事を務めるとともに、子供の大津愛醸成ショートムービーの企画製作を行う委員長を担いました。また議員として専門性をバージョンアップさせるために京都大学公共政策大学院を受験し合格、4月から通学を始めました。年末には後援会や地域の皆様の声を受け止め自由民主党に入党をしました。


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