藤井テツ プロフィール

ホーム>プロフィール

さぁ!大津市を元気にしよう!

私の理念

私はいつの日か「世界中の人が笑顔になる社会」になって欲しいと願っています。
2001年大学を卒業し人材派遣会社に就職、2003年に就職氷河期世代の就職支援会社を起業し、そして2011年に就職氷河期世代の若者の声を代弁したいと政治を志してきた中で、若者の雇用問題、社会保障制度を支える現役世代の所得向上のために一貫して取り組んできました。また議員活動を行う中で多くの皆様の声を聞き、雇用以外にも、まちづくり、学校教育、保育政策、行政改革などの諸課題についても、取り組みの必要性を感じ取り組みの幅を広げてきました。
いまは、身近な地域「滋賀県」「大津市」に住む人が笑顔になる社会になるよう、精一杯取り組み、普段からおごることなく「謙虚さと誠実さ」を持ち、「実行するリーダーシップと責任感」を持ち、「世の中を良くしたいという情熱」を常に持って行動することを理念として自分に課します。
2018年に京都大学公共政策大学院を修了(公共政策マスター)し、統計分析力、クリティカルシンキングを活かし、政策提言にも積極的に取り組んでいます。

藤井テツプロフィール


0歳   町工場を営む父と専業主婦の母のもとに長男として大津市にて誕生。
大津市長等(ながら)で生後間もなく過ごしました。
3歳 聖母幼稚園(学校法人滋賀カトリック学園)に入園
私の記憶にあるのは幼稚園時代から。
お遊戯会では羊飼いの役柄をやったような記憶があります。
6歳 大津市立平野小学校に入学。
膳所駅前にある平野小学校に入学。
同じマンションの友だちと草野球をしてよく遊びました。
学校ではドッヂボール三昧。ファミコン、ビックリマン、ミニ四駆、三国志などが流行っていました。

11歳 大津市立真野小学校に転校。
6年生の夏休みに転校。同じ大津市湖西にある真野学区に転入しました。
自然がいっぱいで驚きました。
卒業文集に「政治家になって、世界をよくしたい」と。
ブラウン管の向こうに映る世界のどこかで飢餓で苦しむ人のため に生きていきたいと思ったからです。
12歳 大津市立真野中学校に入学。
中学校入学と同時にバスケットボール部に入部。
人気漫画「スラムダンク」や「マイケルジョーダン」の影響 もあり、3年間部活に燃えました。
あまり強くないチームでしたが充実した毎日でした。
また、中距離以上の陸上競技では学内1位でした。
「がんばってトレーニングや走り込みをすれば結果は必ずついてくる」ことを知りました。
15歳 滋賀県立東大津高等学校に入学。
中学校と同じくバスケットボール部に入部。
1年の冬に足を負傷し長いリハビリをしました。
スポーツ漬けの日々から一転、悶々とした毎日。 3年生の夏、小学校のときの文集を読み返し政治を志し、勉強に励みはじめました。
18歳 立命館大学法学部に入学。
自分なりに結構がんばって勉強し、京都の立命館大学法学部の政治・行政コースに合格しました。
政治をいちから勉強しようと思いました。
大学では国際政治の勉強から始まり、統一ドイツの労働問題、そして日本のホームレスの方たちの実態調査をテーマにしました。
縁で政治家(衆議院議員)に触れる機会があり、その仕事や物事の進め方を見て、逆に自分は政治家には向いていないとそのときは思いました。
20歳 四国八十八箇所巡りとヨーロッパ一人旅。
自分のこれからの生きていく方向を定めるために旅に出ることにしました。
自分の甘さを正そうとお遍路をまわりました。 いろいろなことを経験できました。
また日本以外の国を実際に目で見たいとEU統合前のヨーロッパ各国をめぐりました。
旅のあと、起業で立身しようと志しました。
世界から飢餓をなくしたいと本気で思い、まずは自らが動き社会的影響力を高めたいと思いました。
22歳 人材派遣を行うヒューマン・タッチ株式会社に入社。
起業準備のため修行のつもりで就職。3社内定をいただきましたが、最も指導が厳しそうだった会社に入社しました。
2年間営業職として勤務し多くのことを学ばせて頂きました。
退職時、上司から頂いた「転石苔を生ぜず」はいまでも大切に心にしまっている言葉。
その上司からは「自信と謙虚さを持て」と励まされました。
24歳 人材育成、採用支援を行うパシオを創業。
人材派遣会社時代に感じていたフリーター問題、ホームレス問題を解決しようと「情熱(PASSION)」からネーミングしたパシオという会社を京都で創業。
フリーター向けの求人サイト事業からスタートし、採用支援事業、人事制度コンサル事業、社員教育事業、人材紹介事業、職業訓練事業へと拡大。
多くのお取引先様に支えられて少ないながらも7年間、求職者の就職支援や、人材育成に関わらせていただいています。
32歳 再び、政治を志す。
7年間、雇用問題に取り組む会社の経営をさせていただき、それなりの成果は上げてきました。
しかし思うのは昨今の厳しい雇用環境下、雇用の受け皿を増やさなければ根本的に問題は解決しないということ。
いち経営者としての限界、 ソーシャルイノベーション(社会変革)の気持ちが昂じ再び政治を志しました。
政治でできることにも限界はあると思いますが、まずはやってみてから。
会社経営者として、人事コンサルタント、教育従事者として培ってきた経験を行政の場でも生かしたいと考えています。
32歳 大津市議会議員に初当選
4月の大津市議会議員選挙にみんなの党公認候補として立候補しました。旧友や地域の皆様に支えられて4千人を超える負託を頂戴し初当選をしました。1年目から就職支援や人事コンサルタントの経験を活かして、雇用政策や公務員人事制度に関する政策提言を行いました。会社経営も引き続き行うとともに、地元消防団に入団し地に足をつけた活動にも取り組み始めました。
33歳 政策提言に積極的に取り組む
秋に長男が誕生。子育ての楽しさと大変さを実感しながら、子育て世代の声を市政に届けるべく、子育て環境の整備、人口減少対策(まちづくり政策や定住移住政策)にも幅を広げ、政策提言に取り組みました。みんなの党の党勢拡大にも力を入れました。また大津のいじめ自殺事件が全国的に取り上げられ、先例的ないじめ防止条例の制定に政策検討会議メンバーとして深く関わりました。
34歳 大揺れの大津市
大津市政は大揺れとなりました。新年度予算の作成過程や市長の教育委員会への介入問題があり、2人の副市長と教育長が辞任・辞職するという異例の事態となりました。越市長には少しは期待していた分、あまりにも拙い市政運営に呆れ、市長辞職を求めるなど厳しい姿勢で議会活動に取り組みました。
35歳 みんなの党大混乱
みんなの党は内部分裂し私が尊敬していた渡辺喜美代表も辞任するなど党は大混乱に陥りました。そうした中、同年夏の県知事選挙に対する方針や、党県連の創設に関する姿勢(私は創設に賛成)について党所属の県内議員との意見の相違もあり結果として離党しました。秋には大津市議会の権限拡大につながる「議決事件の追加」に関して議会運営委員会に提案を行いました。また大津青年会議所にも入会しました。
36歳 無所属で2期目当選
無所属で2期目に挑戦し2,167人の負託を頂戴して当選をしました。1期目の党のサポートを得た戦いとは異なり、地域のみなさんの力のみによる戦いで大苦戦しましたが、なんとか議席を守ることができました。無所属議員3人と会派を結成し1期目同様に是々非々で議会活動を行いました。大津青年会議所では理事兼総務委員長を務めました。
37歳 京都大学公共政策大学院に合格
新年早々行われた市長選挙では新人候補を応援しましたが惜敗。地域恒例の鯉のぼり祭りのイベント実行委員長を務めさせて頂いたり、大津青年会議所では引き続き理事を務めるとともに、子供の大津愛醸成ショートムービーの企画製作を行う委員長を担いました。また議員として専門性をバージョンアップさせるために京都大学公共政策大学院を受験し合格、4月から通学を始めました。年末には後援会や地域の皆様の声を受け止め自由民主党に入党をしました。

公職

  • 大津市議会議員
  • 県立東大津高等学校OB会「飛翔会」役員
  • 立命館大学 滋賀県校友会 幹事
  • 真野学区自治連合会 顧問
  • 大津消防団真野分団 班長
  • (一般社団法人)大津青年会議所 理事
  • (一般社団法人)日本表彰研究所 理事
  • (学校法人)中埜学園 理事
  • (社会福祉法人)榮福祉会 理事・評議員
  • 株式会社パシオ 代表取締役(若者の就職支援会社)
  • 元 京都市ベンチャービジネスクラブ副代表幹事

執筆・寄稿

マスメディア掲載・出演歴

  • 京都新聞、日本経済新聞、産経新聞、毎日新聞、読売新聞などに若者の就職支援についての取り組みを掲載頂く。
  • テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」トレンドたまごに出演

プライベート

  • 家  族:妻・長男
  • 趣  味:バスケットボール、子どもと遊ぶ、読書
  • 大 好 物:かつおのタタキ、コロッケ、トマトジュース
  • 専門分野:若者・女性の雇用問題(著書・寄稿多数)
  • 自己研鑽:四国八十八カ所巡り(歩き遍路・大学時代)
  • 好きな銘:一燈照隅 万燈照国(最澄・安岡正篤)、これでいいのだ(バカボンのパパ)

▲ページのトップへ